大学生の振り返り帳

アウトプットは良いらしい

Slow Thinking

こんにちは。GWは明けて、授業はまたオンラインになりました。正直一年ぶりに対面で授業を受けれていたからか、かなりモチベーションが高かっただけに、オンライン授業になってしまうのは悲しいです。

 

まあできないことを悔いても仕方がないので、早めに切り替えられるように努力します。

 

 

 

今回のゼミは教養編!哲学対話を行いました。

今まで関わってきた哲学は高校の科目ぐらいのもので、「哲学をする」ことは初めてでした。

 

まず最初に伝えられたのは、「問いを立てる」ということ。問いを立てることで人は初めて考えることができる。つまり、「問いの量は思考の量」とも考えることができる。

 

【会話---対話---議論,討論】

会話はテーマが定まってない、議論は2つの派閥に分かれて行われる。対話はちょうどその中間あたり。対話の中で問いと答えを繰り返すことで知識を深めることができる。

 

また今まで正しいものとしか考えてこなかった知識にも、穴があることがわかった。知識を悪いように言い換えると「その通りにしか考えられない偏り」と言え、議論になった際には同じ偏りの人としか集まれないようになってしまう。

一方、問いは様々な考えの人を呼び寄せる。また様々な考えの人と対話を行う中で、既知の知識に揺さぶりがかかる事がある。(相手の言葉にくらう?)これが異化と知りました。

 

ここまでで、「問いを立てる」ことで起こることを書きましたが、この導入の時点で面白すぎました。

 

次は実践編。利己主義について対話を行いました。

 自分たち、というかゼミ全体として利己主義には肯定的な考えが多かったと感じました。自分たちの班は、「行動原理は利己主義であると考えたほうが筋が通る」と考えました。

 

ここからは自分の考えを。

「利己主義を認めた場合、利他主義的な道徳や倫理はどうなるのか」という問いに対しては、「価値も存在自体も今と変わらない」と答えました。

利己主義が正しく、また認められているのなら道徳は無くなってしまうと考えるかもしれませんが、人々は社会の中で、他者とのコミュニケーションで生きています。自分は、道徳や倫理はコミュニケーションを円滑にするために、人々が選択したツールだと考えました。自分やその他大勢が利己主義だと気づいたとき、「他人のために動く人」は光って見えたのではないか、利他主義は社会の中で”良く”見えるのではないか。倫理や道徳もこういったプロセスの中で生まれた、考え方の1つであるため、価値や存在自体も今と変わらないと考えました。

ゼミ中に出た「利己主義を口に出すのはどうなの?」という問いには、「他者とのコミュニケーションのために言わない」と考えてます。

 

結局、利己主義100% or 利他主義100%で生きている人はいないので、これらの問いに答えを出すのはかなり難しいですね。

 

 

 

今回の振り返りはここまで。ラジオでもいいましたが、哲学対話めっちゃ楽しかったです。でもなんでだろ、知識の量じゃなくて、深く考えることのほうが向いてるのかな。

次回も哲学対話、がんばります。